俗化させず大衆の山とする 有峰森林文化村ができるまで2 有峰森林文化村新聞まとめ

有峰森林文化村新聞http://www.arimine.net/annai/newpaper.htmは、有峰森林文化村が発行しているニュースペーパーですが、開業も読みにくいし、索引も分かりづらかったり、続けて読みにくいという欠点があるので、少し纏めてみています。

に引き続き元祖編集長中川さんによる有峰森林文化村ができるまでの記録をまとめていきます。

〜山森直清さんから学ぶ1回目~

 有峰森林文化村には、いろんな計画や文章があり、開村式や有峰ハウスのオープンが絡み合い複雑です。それを図化するとこのようになります。
図1 有峰の色々な計画
  • A 基本理念。「水と緑といのちの森を永遠に」2001年5月。
  • B 基本構想。これも2001年5月。Aの基本理念を中核とする構想です。
  • C 基本計画。Bの基本構想を具体化するためのものです。2001年10月の段階でほぼ出来上がりました。きっちり確定したのは、2002年7月。
  • D 憲章。
  • E シンボルマーク。Cの基本計画と連動して、これらも、2002年7月。
  • F 開村式。2002年8月3日。
  • G 県の有峰森林文化村条例。2002年6月県議会で制定。
  • H 新有峰ハウスのオープン。2004年10月。
 2000年当時、考えていたのは、Fまでです。そこまではトントン拍子に進みました。模範的な進み方だったと思います。しかし、Gの条例や、Hの新有峰ハウスなどは全く考えておらず、この点に関しては、中沖豊知事の後押しがなければあり得ないことでした。
 県のあらゆるプロジェクトにおいて、B基本構想とC基本計画は不可欠です。しかし、Hのハコモノを前提に、逆算してBとCを作ることがほとんどです。HのハコモノのためにはGの条例が必要であり、さらにA基本理念、D憲章、Eシンボルマークが定められるという感じです。それに対して、有峰森林文化村は、担当者から部長までが、Hのハコモノなどみじんも意図することなく、Aの基本理念をど真ん中に置いて、D、E、Fを目指していたのです。ほとんどの県庁の職員は、ケチです。財政健全化が大事だと思っています。ですから、財政負担を増しかねない新しいハコモノを欲しがる県職員はほとんどいません。そんなことを言おうものなら、コテンパンに叱られます。富山県において、ハコモノ建設の主導権は、一人、知事が握っていると考えて間違えありません。
 東洋の森林文化をやりたいという小見豊さんの中沖さんへの説明が優れていたこと。基本理念、基本構想、基本計画、憲章といった一連の流れが、旧制富山高校出身の知事として、吉田知事、中田知事がそうであったように、哲学的な何かを残したいと思っていた中沖さんの気持ちを動かしたこと。これらが、ボロボロだった有峰青少年の家を、木造の有峰ハウスとして新しく作ろうと決意させたのだろうと推測しています。決して、部長以下がおねだりしたものではありません。
 さて、このような調子で、基本構想がどうのこうの、条例がどうのこうのと書いたところで、退屈と思われるのが関の山です。皆さんに、有峰森林文化村の目指していたことをお伝えする、とりわけ、有峰で働いている人たちに、こんな考えで進めていたのだということを伝えなければならないと思っています。そのためには、個人に着目した記述をしようと思います。1853年に黒船が来て、1868年に五箇条の御誓文という歴史より、坂本龍馬は1865年に亀山社中を作り、1867年に暗殺されたという歴史のほうが、面白いでしょう。それと同じです。
 有峰森林文化村新聞 2016年10月28日 第374号で描いた、図を書き換えました。今度、輪ゴムにあたるのが、基本理念と憲章です。この輪ゴムは、いくつかのペン、鉛筆、色鉛筆を留めています。輪ゴムは、一か所で留めているだけです。決して、二か所で留めてないので、ある程度ぐらぐらしています。そのペンや鉛筆として、山森直清さん、梅原猛さん、長井真隆さん、稲本正さん、中野民夫さん、平内好子さんを挙げたいと思います。基本理念を作り上げた当時から、今日に至るまで、私の有峰森林文化村に対する考え方の基礎を教えてくださった方々です。6本の鉛筆を、中央の輪ゴムで留めているイメージです。
図2 基本理念という輪ゴムとペンや鉛筆
 その方々を、どんなアイデアを教えてくださったかを中心に、一人ひとり紹介していきます。その方によって、何回にも分けて書きます。
 お一人目は、山森直清さんです。
 2000年3月だと思います。県の治山課課長代理をしていた私は、あるハンコを押してもらうために、有峰管理事務所の中村百(なかむらひゃく)所長代理と有峰の麓、亀谷(かめがい)に雪の残る一軒のお家を訪ねていました。有峰林道小見線の入り口に、亀谷連絡所があります。そこの敷地は、駐車場も含めて、県が借りています。地権者が、8人おられます。小見と亀谷だけでなく、岐阜県、京都府の方もおられます。その地権者の方々に、借地契約を更新してもらう必要があります。その地権者代表が、山森直清さんだったのです。
 玄関に入ると、下駄箱の上に、軍艦旗がかざってありました。「あちゃあ、右翼の人!」とちびりました。応接間に通していただいて、鴨居を見ると、潜水艦の絵や、軍艦の絵が並んでいます。じっと目を凝らすと、広島県江田島の海軍兵学校の絵があります。私は、日本国憲法はいいと思っています。そして、海軍は、ストライクゾーンです。横須賀の戦艦三笠(日本海海戦の連合艦隊旗艦)に二度乗り、江田島を見学しました。司馬遼太郎の「坂の上の雲」はだいたい覚えており、阿川弘之の「米内光政」、「山本五十六」、「井上成美(せいび)」は、何度読み返したかわからないくらいです。山森さんに教えられて、後に、呉の大和ミュージアムにも行ってきました。そして、高校の現代国語の教科書にあった「戦艦大和の最期」(吉田満著)は、愛読書の一つです。
 おそるおそる、「あれ、海軍兵学校ではないですか」と聞くと、「そうだよ、私は、戦艦大和に乗っていたんだ」。ソファから転げ落ちるくらいにびっくりしました。海軍兵学校は、海軍兵科将校を育てる学校。平時は年間100人くらいしか採用がなく、おおむね旧制中学から受験します。そこは、旧制一高三高なみの難関。大正10年生まれの父の小学校同級生が、海兵(海軍兵学校の略)に行っておられます。小学校創立以来、たった一人でしょう。70期(昭和16年11月15日卒業)は、432人。うち、富山県出身は、高岡中学1人と礪波中学1人だけ。幸い戦死はされていないようです。「担任の先生がいつも自慢しておられた」と、父が言っていました。
 大正12年9月11日生まれの山森さんは、73期(昭和19年3月22日卒業)902人の一人です。敬愛する井上成美中将の校長時代に卒業されています。その時の富山県出身は、10人。魚津中2、富山中3、神通中(富山中部高校の前身)2、高岡中2、礪波中1。うち戦死3。20歳をちょっと超えた前途洋洋の人たちがと思うと、胸が詰まります。
 この背中のピンとして痩せたご老人が、エリート中のエリート、海兵とは。江田島の海兵跡(海上自衛隊第1術科学校)を見に行ったこと、井上成美が好きであることを、山森さんに話しました。井上に対して無反応だったのは、快く思っておられなかったのかも知れません。極め付けは、大和に乗っておられた生還されたこと。「戦艦大和の最期」は、高校の教科書にあり、今も、よく読み返すことを話しました。ちなみに、昭和20年4月沖縄に向かう途中で沈んだ戦艦大和では、2,740人戦死。生還者269人または276人。一方、戦時中の海軍航空特攻隊員の戦死は2,531人、陸軍航空特攻隊員の戦死は1,417人。参考までに、真珠湾攻撃におけるアメリカ軍の戦死は、2,345人。
写真 山森直清さん(撮影:犬島肇氏)
 しかし、このご老人、偏屈な右翼である可能性を否定できません。訪問の目的は、あくまでも、つつがなくハンコを押してもらうこと。憲法9条好きがばれて、「そんなやつとは話ができん」とつむじを曲げられては、失態です。応接間の向こうには、仏壇の扉が開かれており、鴨居には、海軍もののほかに、親鸞ものも飾ってあります。私は、梅原猛さんの本を何冊か読んでいたので、仏教、浄土真宗、とりわけ、歎異抄もストライクゾーン。「親鸞ですよね、私も親鸞、好きです」と、海軍を離れて、調子を合わせるきっかけを見出しました。「私は、真宗大谷派の門徒で富山東別院の責任役員をしている。毎月、京都の東本願寺に通っている」と言われました。調子を合わせて、親鸞、蓮如や歎異抄の話をしていると、中村さんが、袖をひっぱります。さもありなむ。土地賃貸借契約の話をすると、即座に、「みんなのハンコ集めとくちゃ」と快諾されました。「ごめんください」から「失礼します」まで、30分。海軍の話12分、歎異抄の話15分というところです。
 家に帰ってから、高岡高校で「戦艦大和の最期」を教えてくださった犬島肇先生に電話で、「今日、仕事で、海兵出身で、戦艦大和に乗っていて生還した人に会ってきました」と興奮を伝えました。先生も驚いておられました。
 「水と緑といのちの森を永遠に」の輪ゴムで留められた一つの鉛筆は、「俗化させず大衆の山とする」です。それに一番、影響を与えてくださったのが、山森さん。次号でさらに詳しく、説明します。

〜山森直清さんから学ぶ2回目-俗化させず~

 有峰について県議会で質疑が交わされることはめったにありません。立山・黒部を100回とすれば、氷見・五箇山が30回ぐらい、有峰は3回ぐらいでしょう。そのめったにない質疑の中でも、2000年8月31日の農林水産常任委員会は出色です。有峰の現状、課題、今後の方向性が、出尽くしていると言っても過言ではありません。議会の報告書から、有峰に関する部分を転記します。
 犬島肇委員(共産党) 8月10日に県の総合計画策定に関する会議が開催された。県東部地域の自治体の首長と県議会議員が合同で総合計画について議論する場であったが、大山町長が有峰の未来像をどう考えているかと質問した。有峰を俗化させない方針で計画が立てられないかという趣旨の発言だった。知事は俗化させない方向で一生懸命研究調査していると答弁した。
 解説します。8月10日の会議と言うのは、総合計画のための会議で、自治体の首長、県会議員、知事が出席したものです。その席上、大山町長だった飯幸夫さんが質問し、それに対して中沖豊知事が答弁した。それを、犬島県議が見ていたということです。犬島県議の質問の転記を続けます。
 治山課での進捗状況と、検討課題はどんなものに絞り込まれてきているのか。俗化させないという非常にアバウトな議論だったと思うが、有峰保全の理念像とはどういうものなのか聞きたい。仮に高度成長期以来、立山が大規模に開発された俗の世界、観光ビジネスの世界だとすれば、有峰は俗ではなくて聖の世界、清らかな世界だというような感じになってくると図式を描いている。立山の大町ルートから美女平までおりてくるルートは大体これは俗の世界、それに対して西側に位置する有峰は聖の世界であり、聖と俗ということになっているが、現在の検討状況、考えを聞きたい。
 これに対する、小見豊さんの答弁です。
 小見豊治山課長 9月補正予算案において、有峰地区のあり方調査費100万円を計上している。(途中、略)検討課題は、
  1. 有峰を人々の心に残る森林として21世紀にも引き継いでいくためにはどうしたらいいのか、
  1. 有峰林道の安全性を確保しながら有峰地区の管理運営組織が今後どうあるべきなのか、
  1. 命の大切さとか謙虚な自然観というような心の問題にも踏む込んだ森林環境教育を行うにはどうすればいいのか
ということを考えている。(途中、略)立山が俗、有峰が聖という表現があったが、この対比について治山課としては、ある事柄が俗なのか聖なのかという判断は人によっても違い、難しいのではないかと思っている。しかし、有峰を俗化させてはならないとの気持ちは県、大山町、地主である北陸電力、有峰の来訪者の心の中に広く存在しているものと確信している。これらを踏まえて、立山の俗と有峰の聖を対比して考えていくのではなく、有峰を俗化させないとはどういう意味なのかみずからに問い続けていくことが、有峰問題に取り組む上で大変重要だと思っている。
 解説します。議会において、議員に、「こんな質問をしてほしい」と、県の課長などが根回しをすることが、たまに、あります。そして、答弁については、答弁者が全て細部まで知っているということはあり得ませんから、答弁原稿が作成され、それを見ながら答弁者が議場で答弁するという格好になります。その答弁原稿作成は、担当者(多くの場合は係長)が答弁案を作り、組織としての吟味を経て、答弁者に提出という手順を踏みます。これについては、例外がありません。県当局と県議会が、相互に牽制しあって立派な地域づくりをするというのが地域の民主主義の根幹。したがって、それを実のあるものにするために、答弁原稿作成は不可欠なステップです。さらに、先立つ課長の根回しも、議員がきっちり勉強しておられることを条件として、癒着・なれあいとは言えない、大事な仕事だと考えます。
 一方、議会以外の会議における、質問・答弁については、課長の質問者への根回し、組織としての答弁案作成は、時と場合により様々です。つまり、出たとこ勝負ということも多いです。
 さて、犬島県議が質問の中で触れられた、8月10日の飯幸夫大山町長の質問と中沖豊知事の答弁についてです。治山課長は町長への根回し、知事への答弁案提出を一切していません。さらには、8月31日の常任委員会でこんな質問をしてくれと犬島県議に根回しも一切していません。私は、課長の下で働く、(忠実な?)課長補佐であり、私から犬島県議に対する働きかけなど、滅相もないことです。ただし、犬島県議は、高校の恩師であったこともあり、個人的にお会いすることもあったので、有峰の仕事をしていることは話してはいました。県議、とりわけ共産党の議員に、課長でもないものが、質問するように働きかけでもしようものなら、県庁で十倍返しを食うことは必定ですから、絶対にしていません。願わくば、出世したいと思っていた私ですから。天地神明に誓って。
 もっとも、高校以来の師弟関係を続けていることは、中沖知事もご存知でしたから、部長や課長が、内心、疑っておられたかも知れません。一度もそんな疑いの言葉を直接かけられたこともありませんけれど。ちなみに、高岡高校で犬島先生の教えを受けた県職員の中には、県庁の廊下で共産党に属する先生とすれ違っても、知らん顔する人も多かったそうです。「公務員第一条、保身に細心の注意を払うべし」です。そうはいうものの、犬島先生が、私の仕事の応援演説をしてやろうと思っておられた可能性は大です。先生の人生観、政治信条が、大山町長と知事とのやり取りを聞いて、産声を上げつつある有峰森林文化村に共鳴したということでしょう。
 議会の質問は、遅くとも前日までに、質問者である議員から県当局に届けられます。議場で、いきなり質問してもろくなことがないので、そういう事前通告の慣例になっているものです。その答弁のうち、知事、部長、課長が答えるものは、担当係長が答弁案を作り、それぞれの答弁者まで、一段ずつ、はしごを登るように見てもらいます。 このはしごを登るのが、大変です。県庁の時間外勤務の多くは、このはしご登りのときに発生します。第一のパターンとして、知事が答えるものは、課長が担当者の案を真剣に赤色鉛筆します。次に、はしごを登った先の部長がこれまたがっちり推敲します。そして、最終的に知事の所に届けられます。部長と知事の間に、はしごが挿入されることもあります。登りだけならいいですが、時として、バックもあるので大変です。第二のパターンとして、部長が答えるものの課長段階は一緒です。しかし、部長段階は本人が答えるわけですから、知事答弁ほど、部長が厳しく赤色鉛筆するわけではありません。第三のパターンとして、課長が答えるものは、原案を作り課長に渡しておけば、課長が、自分で気の済むまで直して答弁するだけです。部長が課長の答弁をチェックするといったことはありません。質問答弁はこのような仕組みで回ってい ます。しんどさは、第一>第二>第三なのです。
 小見課長の答弁は、4月に課長就任以来、二人の机の間に置かれた、木の切り株に私が腰かけて、ああでもないこうでもないと話し続けた内容です。課長答弁案を小見さんに出したとき私が考えていたことは、「立山は俗化させてしまった。その失敗の轍を踏まないように有峰を持っていきたい」などと答弁したら、大変なことになると いうことでした。そんな答弁が、新聞で報道されようものなら、まるで鍋をひっくり返したような騒ぎになります。二人が、朝な夕な、話の中で繰り返してきたように、「俗化とはなんぞやと、問い続けていくことこそが大事なのだ」という、ある意味、ケムマキ作戦を取ることにしたのです。
 ここで、「俗化とはなんぞや」という定義は別にして、大山町長も、富山県知事も、犬島県議も、小見課長も、その全員が、「俗化させてはならない」という認識を、共有していたことに注目してください。質問答弁のやりとりが続いたのちの犬島県議の質問から、転記を再開します。
 犬島委員 有峰林道の料金がマイカーで1,800円と高いのは俗化させないためなのか。また、料金は今後どうなっていくのか。大規模林道の整備などと併せて今後の展望を聞きたい。
 小見治山課長 平成5年(1993年)に有峰に訪れた人々に対してアンケートを行っている。その結果は、1つは狭くて曲がりくねった林道を改良して安全なものにしてほしいこと、2つ目は有峰の静けさとか森の美しさ、気高さといったようなものを決して失わないでほしいということであった。有峰林道は今年から大型バスも通れるようになり、安全性の確保はかなり進んだと思っている。これからは有峰の静けさ、森の美しさ、気高さといったようなものを決して失ってほしくないとのニーズにどう応えていくかが大変重要になってくる。今後、有峰を人々の心の残る森林として21世紀にどうやって渡していくかは、大規模林道の進捗を考えると待ったなしの課題ではないかと感じている。検討会等で検討したいことは、具体的にはまだ像が結んでいないところもあるが、命の大切さとか謙虚な自然観をはぐくむ森林環境教育を行う仕掛けづくりといったものの充実が非常に大事だと思っている。一部に既存施設のリニューアルも出てくるかもしれないが、考え方は決してハード整備の開発型ではない。林道使用料はパトロールなど林道の維持管理や補修工事の財源に充てており、入山規制のための徴収ではない。有峰森林特別会計を組んでおり、不足分は県と北陸電力とが折半している。林道の利用者と北陸電力、県とで負担しながら森林を守っている大変すばらしいシステムであると思っており、今後も有峰林道は有料が望ましいと考えている。
 解説します。この小見課長答弁に、部長、課長、私、そして現場の有峰管理事務所が一体となって考えていたことが端的に述べられています。1993年当時の小見線は、トンネルの中に信号があり滝が流れているという真谷トンネルを筆頭に、現在とは比 較にならない怖い道でした。細い山道ですれ違いが怖い、前進あるのみのご婦人運転の車が、立ち往生ということもあったに違いありません。さらに、大規模林道について解説します。正確には大規模林業圏開発林道と言います。林道と言っても、新しく林道を作る区間もあれば、既存の国道をそのまま利用する区間もある林道です。富山県に大規模林道は3路線あります。その3本は、Yの形でつながっています。その分岐点が、有峰林道から降りてきて、最初に信号のある交差点の小見です。Yの左上の部分が、小見から北西の福光刀利ダムに向かう大山・福光線。Yの右上の部分が、小見から北東の朝日町越中宮崎駅に向かう大山・朝日線。Yの根元の部分が、小見から有峰を通って岐阜県をどんどん南下し関ヶ原に向かう大山・高山線です。当時は、3路線について様々な工区に区切って、少しずつ工事をしているというところでした。県内における大規模林道工事の多くの部分は、大山・高山線の中の有峰林道小見線に注がれていました。現在も完成していません。この3路線、そもそも高度経済成長時代の林道路線計画であり、今後どうなるかわかりません。この大規模林道は大幅な行政改革によって、2008年度から表のようになりました。
表 富山県が関係する大規模林道
2007年度まで2008年度から
正式名称緑資源幹線林道山のみち地域づくり林道
事業主体独立行政法人緑資源機構





大山・福光線
 (Yの字の左上部分)
福光刀利ダム→上平→利賀山の神トンネル→八尾→小見同左
大山・朝日線
(Yの字の右上部分)
朝日町越中宮崎駅→黒部→魚津→上市→小見同左
大山・高山線
(Yの字の根元部分)
小見→亀谷連絡所→有峰林道小見線に入る→★道源谷で有峰ダム方向に右に降りていかないで直進→有峰林道折立線に入る→有峰ハウス・有峰ビジターセンター・北陸電力有峰記念館→右に曲がると折立に向かうことになる分岐を直進→有峰林道東岸線に入る→1000メートルぐらいで通行止め。
→★道源谷で有峰ハウス方向に進まないで、有峰ダムに向かって右に降りていく→有峰林道西岸線→有峰ダムのてっぺん→冷タ谷キャンプ場→大多和峠への分岐点(お地蔵さんあり)をほぼ左に直進→有峰林道南岸線→有峰林道東谷線→東谷連絡所→県境の飛越トンネル(ここまで有峰林道東谷線)→山之村→駒見橋→神岡→高山→・・・・→関ヶ原
同左
注:市町村合併があったころから、地名を正確に記しても、必ずしも分かりやすいわけではないので、運転者に分かりやすいことを重きをおいて、地名を記述した。
 この章は、数回に分けて、山森直清さんを軸に、俗化させたくない有峰について記述します。立山山麓の本宮に生まれ、小見小学校から富山中学に進み、飛びっきりの秀才として海軍兵学校に学び、沈没した戦艦大和から辛くも生還し、有峰の麓、亀谷に静穏な老後を送っておられた山森さん。この山森さんが、俗化問題で、決定的なホームランを放たれるのですが、彼がバッターボックスに立つまでは、もうしばらくページが必要です。

〜山森直清さんから学ぶ3回目-俗化、もう無視?~

  2000年8月31日の農林水産常任委員会の質疑応答を続けます。なお、知事の答弁がないのは、常任委員会に知事は出席しないからです。
犬島委員 有峰にカルデラ博物館や立山博物館のようなものが必要だとは思わない。こういったものがないのが有峰の美しさとか静けさを担保している。ただし、生物層などについての調査データも既にかなりあると思うが、自然環境調査についての系統的な情報を県民が入手できるようにしておかないと、有峰の環境保全に住民が協力してくれることにはならない。知らせたら取りに入るだろうという理屈もあるが、知った上でなお取らせないというのが、県が今示そうとしている俗化させない有峰を形成していくと思う。その意味で情報提供も極めて重要な課題であると思うが、所見を聞きたい。
 小見課長 委員の指摘したとおりだと思っている。有峰地区の自然環境や歴史などについての情報整理、それらの情報を容易に県民にも提供できることなども、今後検討会等を通じて研究していきたい。
 解説。犬島議員と小見課長の意見は完全一致しています。犬島議員の質問を続けます。
 犬島委員 有峰をそのように捉え、描き、理想像を求めていくのはすばらしいことだと思う。
 立山は開発により入山客が多くなり、ごみの始末などの現実に追われ、これは大変だとの消極的な反省に立つものなのか。それとも21世紀において有峰というものをこう描かなければならないとの積極的な考え方が出ているものなのか。有峰のいろんな積極的な方向を新しい総合計画に書き込むだけでなく、立山黒部、立山カルデラ、有峰などに関して政策的に共通する部分と違う部分はどこにあるのか系統的に明確にしていかなければならないと思う。それは農林水産部だけの問題ではなく、県全体の仕事になると思う。その見地から総括的に、有峰をめぐって周辺の山々との差別と同一、有峰をどう描くか聞きたい。
 解説。いよいよ、立山俗化に対する反省に立った有峰森林文化村なのかという問いです。犬島県議の消極的俗化論に乗ってしまえば、昭和30年代以降の県政を否定することになります。かといって、犬島県議の積極論に与すれば、とても重い荷物をしょいこみそうです。
 県庁全体で、立山・黒部・有峰の姿を模索するなんて、話がややこしくなります。ましてや、知事のお墨付きもある有峰森林文化村をがんがん進めたいと考えている農林水産部にとって、主務部は別ではないのかと言われているのですから。いよいよ、上江崇春農林水産部長の登壇です。
上江農林水産部長 今までの観光はできるだけ多くの人、いわゆる団体旅行に代表されるように多くの人たちが自分の思いと必ずしも合わなくても団体でざっと見ていくという観光が中心であり、立山もそういったことをある程度受け入れるような態勢で交通手段などが整備されている。しかも民営であることから採算も考えながら、ややもすれば商業主義的な取り組みがなされてきた面もあると思っている。これからの観光は、そういった動きはかなり変化してきているし、もっと変化するのではないかと思っている。その端的なあらわれは、小グループあるいは家族など、自分の思いを達成するためにそれぞれの地域に出掛けていく旅行が中心になってきているし、21世紀においてはそういった意味での取り組みがなされてくると思っている。これからの観光開発は、その地域が持っている特性を十分に発揮または生かせる取り組みをしていくのが基本だと思っている。
 立山はよく俗化したと言われるが、立山そのものが俗化したとみるのか。あるいはそこに行っている人間の気持ちが俗化しているのかについてもう少し考える必要がある。立山の持つすばらしい気高さは決して変わっていないと思っている。有峰の自然が持っている特性をこれからも生かせるような利用の仕方を考えていく必要がある。
 有峰には有峰青少年の家やビジターセンター等県有施設が幾つかあるが、有峰管理事務所をこれからどうしていくのか検討する中で、森林管理を農林水産部で検討することになった。その中で、森林だけを切り離して管理するわけにはいかない。あるいは森林を管理するための林道管理だけで考えるわけにはいかない。有峰が持つ自然や歴史文化、さらに関連するカルデラ、薬師岳、黒部の源流へのアプローチ、有峰湖が富山市の水源にもなっているが、この果たしている役割など幅広に考えなければならない。
 単なる管理事務所の問題だけではなく、全体を含めて有峰の今後の取り扱いを考えていこうということで、「森林文化村」と仮に名をうちながら、庁内並びに大山町、北陸電力ともいろいろと意見交換したらいいのではないかと打ち出したわけである。あえて「村」としたのは、地域となると面的広がりという考え方になるが、おのずとそこで行われる人間の営みを考えていかなければならないとのことで村という名前を付け、いろいろなことを考えていくことにしている。そういう面からすれば、治山課が取り持つにはあまりにも大き過ぎる課題であるが、せっかく与えられた命題であるので多面的に考えながら、有峰のこれからの位置づけを関係者の意見も聞き、庁内の議論をした後は、専門家の意見ももらいたいと思っている。
 何よりも大事なのは、有峰の資源は一体どういうものなのか。例えば自然にしても、今までは有峰の木材は伐採し、また植林をするという形で利用してきた。天然林も残されており、その植生はどうなのか。そこにどういう歴史があるのかも調査研究しなければならない。それらをきちっとそろえた上で有峰というものを客観的に整理しなおす。そしてそういったことを考えながら有峰を利用していかなければならないと思っている。
 林道ができて確かに便利にはなるが、これは安全に有峰へアプローチするための一つの手段としてきちっと整備する必要があると思っている。十和田湖、奥入瀬(おいらせ)へのアプローチは非常に道路もよく整備されているが、決して俗化したとは言われない。そのようにその地域の持っている特性をきちっと打ち出していけば、それに合った利用の仕方が確立していくのではないかと思っている、そういった面をきちっと整理しながら、県民の理解を得て利活用し、保全していきたい。
 解説します。前回書きましたように、部長の答弁案は、課長推敲済みの案を部長に提出し、部長・次長の添削を経て、部長に再提出することによって一件落着です。部長は、それをそのまま読むこともありますし、自分でさらなる修正をすることもあります。上の答弁において上江部長は、小見治山課長提出原案を、訂正することなく受け取り、一晩じっくり考えて、答弁しています。そして、治山課長案から大変わりした答弁になりました。団体旅行の変化、十和田湖・奥入瀬など、案には一言もなかった話です。立山が俗化していることをさりげなく認め、村と銘打つ意義を示し、治山課主体でやっていくつもりであることを述べ、十和田湖や奥入瀬渓流が俗化していないように有峰もそうしたいと締めくくっています。偉大部長に仕えていたものよと、その幸福を思います。
 しかし、今、この答弁を吟味すれば、疑義がないわけではありません。
 私は、有峰の参考にと、十和田湖・奥入瀬渓流に視察に行かせてもらいましたけれども、地元の人がどう感じているかは調べませんでした。今もわかりません。問題は、地域の人が、地域の観光地をどう見ているかです。富山県民にとっては、朝な夕なに立山連峰を仰ぎ、小学校6年生の時に立山登山し、「仰ぎ見る立山連峰」で始まる富山県民の歌を空で歌える富山県民が、日本三霊山の一つ立山を、俗化したと見ているかどうかが問われているのです。住んでいる人たちにとってどうかという問題を問うことなく、十和田湖や奥入瀬渓流を例に挙げ、あんなふうにしたいと言われれば、なるほどなあと、皆が納得する答弁だと思います。こういう風に気づくのは、私がこの原稿を書くために、何日も何日も考えているからであって、当時は、「さすが、上江部長!」としか、思っていませんでした。
 本題から脇道にそれますが、上江部長は、「今までは有峰の木材は伐採し、また植林をするという形で利用してきた」と答弁していますが、伐採をやめてから30年以上経っています。念のため。
 富山県議会のホームページには、1994年からの本会議、予算特別委員会、2000年からの政策討論委員会、2001年からの委員会の会議録が登録されています。ここまで転記してきたものは、2000年の農林水産常任委員会であり、ホームページには載っていません。ですから、私は、議会図書室に行って本になっているものを探してもらい、そこから転記しました。
 さて、そのホームページで「俗化」で検索すると、3件がヒットします。うち、2件は、世俗化(1998年)、習俗化(1996年)でヒットするものです。この2件は、教育に関する質疑応答です。残る1件は、2001年3月の農林水産常任委員会のもので、犬島委員の質問に対する小見課長の答弁です。つまり、これまで転記してきた委員会の半年後に行われた答弁です。
 犬島委員 最後に、有峰文化村について聞きたい。この文化村は自然と対決するのではなく、自然に即して生きていく場をつくっていくのが基本理念かと思っている。この村の21世紀的な意義と、村という以上学びという営みなども起きてくるのではないかと思うが、何を学ぶ施設にしようとしているのか聞きたい。
 小見治山課長 有峰森林文化村の基本構想は検討会の中で議論しているところである。21世紀は心と環境の世紀だともいわれており、日本人の美しい心にも目覚めて、人としての生き方を循環と共生の観点から見直すことが求められているのではないかと考えている。そうした思いをこの基本構想の中で、有峰を俗化させず、心に残る森として22世紀に渡していくという基本的な考え方で今後、訴えていきたいと思っている。
 どのようなことを学ぶかについては、有峰森林から広く県民が恩恵を受けていることに感謝し、今後とも県民共有の財産として維持し、その自然の偉大さも学んでいきたいと考えている。
 具体的には、第1に、有峰の自然は富山市など下流域の人々の重要な水瓶になっている。また、80万kwを超える水力も起こしている。さらには山地災害防止等といった多くの恩恵を県民に与えている。こういったことに私たちは感謝し、有峰森林の多様な機能を持続的に高めていこうということである。
 第2には、自然に即する、即自然といった見方に立ち、豊かな有峰森林の中で展開される森林環境学習、有峰森林の動植物の営み等から謙虚な自然観を学び、私たちの日々の生活の中でもそれらを知恵として生かしていくことも考えている。今後は有峰森林を県民のよき学びの場として22世紀に引き渡せるように、有峰森林文化村構想の推進に努めていきたい。
 解説します。この小見課長の答弁が、有峰森林文化村の目指すところをきっちり説明しています。先に転記した、前年9月議会のものと比べて、明快です。しかしながら、9月議会の方が、俗化とはなんだろう、どんな状態が俗化だろうという難しさが背後にあり、どきどきさせる答弁になっています。半年後の犬島議員の質問からは「俗化」の言葉が消え、小見課長がさらりと、「有峰を俗化させず、心に残る森として22世紀に渡していくという基本的な考え方」という形で、「俗化」という言葉を使っています。9月議会の上江部長の答弁で俗化論争は一件落着したことが読み取れます。
 今ここで、「俗化」でヒットする議会質疑応答が、2001年3月を最後にないという事実に驚かされます。「観光」で検索すると、1040文書、6629発言がヒットします。さらに、「観光」「経済効果」で重複検索すると、134文書、188発言がヒットします。「観光」「イメージアップ」で重複検索すると、212文書、289発言がヒットします。つまり、観光を推し進める上で、大事なのは、経済効果やイメージアップのであって、俗化なんて無視なんです。
 経済効果とは、平たく言えば儲かるかどうか。イメージアップは、見かけがよいかどうか。
 一方、俗化という言葉に気を取られるのは、お金に目がくらんで、外見だけを気にし、精神面のことはおざなりにしていないかを、心配するからです。俗化という言葉が、議会から消えてしまったということは、社会劣化の一つの証拠にならないでしょうか。俗化について、次回、山森直清さんから教えていただいたことを基に、私の発見を書きます。

〜1960年代の合意-俗化させず大衆の山に~

  山森直清さんの話に戻ります。山森さんは、戦艦大和から生還し、戦争が終わった後、北陸電力に勤められ、真宗大谷派の門徒として生涯を過ごされ、2008年10月8日に亡くなられました。85歳でした。私は、お家に、20回ぐらい遊びに行きました。話は、海軍兵学校、戦艦大和、北陸電力、親鸞など。
 ここで、北陸電力の有峰電源開発を振り返ります。大きく、2期に分けることができます。
 まず、1期目。有峰ダムの堰堤の上を右岸(ビジターセンター側)から左岸(キャンプ場側)に向かって進むと、堰堤の左側にひっついた小さな建物にたどり着きます。和田川第一・第二発電所取水塔です。北陸電力が有峰ダムを完成させた1960年に稼働しました。ここで、有峰湖の水が、取り込まれ、和田川の右岸の山の中トンネルをほぼ水平に進み、真谷でどんと落差を駆け下り、和田川第一・和田川第二発電所・新中地山発電所などの発電所で発電しています。なお、新中地山発電所は、小口川の下流、中地山にあります。和田川から尾根をトンネルで潜って、尾根の反対側の小口川に水が行っているのです。
 次は2期目。話を、堰堤に戻します。さきほどの取水塔をさらに進むと、湖の上に建物が突き出て、その建物と堰堤を橋がつないでいるところにたどり着きます。500メートルの堰堤全体の4分の3ぐらいのところです。この建物が有峰第一発電所取水塔です。ここから取り入れられた有峰湖の水は、和田川左岸をトンネルで進み、真谷の有峰第一・有峰第二発電所・有峰第三発電所などで発電します。なお、有峰第三発電所も中地山にあります。この一連の工事が、1981年に完了した有峰再開発です。有峰再開発までは、今のビジターセンターなどがある猪根平は、工事にとって重要な基地でした。有峰再開発が終わり、工事基地としての役割がなくなったので、県はビジターセンターやテニスコートなどを整備したのです。
 6つの発電所の認可最大出力を並べてみます。
  • 和田川第一 27,000kW
  • 和田川第二 122,000kW
  • 新中地山 74,000kW
上の3つの計223,000kW
  • 有峰第一 265,000kW
  • 有峰第二 120,000kW
  • 有峰第三 20,000kW
上の3つの計405,000kW

6つの合計628,000kW
 北陸電力は、この有峰再開発完成を記念して「有峰と常願寺川」という社史を作りました。その社史の編集責任者が山森さんでした。戦前戦後の電源開発の歴史を中心に、中世の有峰の歴史などにも触れた素晴らしい本です。山森さんは、富山県立図書館・富山市立図書館に通って、大正年間の新聞記事などの文献を丹念に読んだそうです。晩年、東本願寺に通って、聞いた講話をテープ起こしし、講師にチェックしてもらっているという山森さんの原稿用紙を見せてもらいました。まるで活字のような美しい字が並んでおり、山森さんの性格が表れていました。そんな山森さんが、北電現役時代に編集した本ですから、半端な本ではありません。
 私は、それまでも有峰森林文化村を構想するために、「有峰と常願寺川」も読んでいました。しかし、あの緻密な山森さんが作られた本とあって、もう一度、精読しました。有峰に限らず、およそ歴史を知るうえで、社史は極めて重要ということを知ったのはその時でした。担当者が、給料をもらいながら、勤務中に、予算もばっちりついた本を作るのですから、好事家が作る歴史書とは格段に違います。古事記や日本書紀も、その類と考えれば間違いがありません。
 「有峰と常願寺川」の146ページに、こんな文があります。
 有峰のもつ神秘性を失わせずに、俗化しない"大衆の山"とするために、 当事者たちの豊かな発想が期待される。
 この一文、山森さんが性根を入れて書かれたものだと思われます。私は、それまで、「俗化させない」だけを知っていたけど、「神秘性」、「大衆の山」、「当事者」、「豊かな発想」という言葉にどきっとしました。とりわけ、大衆の山に、クォーテーションマークがついています。そこで、他の文献にもう一度当たってみることにしました。
 1957年発行の「有峯を探る」という有峰における必須の文献の中に、北日本新聞社政治長の深山栄さんの、「無限に拓ける国際観光地」という文章があります。
 さらに夢を語らせてもらうとすれば有峯から薬師までバスで行けるようにしたいということだ。この自動車コースはまさに快適だろう。 薬師まで行けばあとは五色ケ原へもゆける。さらに立山までも延ばしたい。(中略)もちろん国立公園法とやらいう厄介なシロモノもあり、厚生省もなかなかいい顔をしないだろうが、俗化でなく、大衆の山とするためには少しぐらいは太ツ腹であらねばなるまい。(引用ここまで)
 ここでも、俗化と大衆の山がセットで出てきています。有峰・薬師を知る者として、なんと恐ろしいことを深山さんは語っているのだろうと思います。「太ツ腹」な人にとってみれば、観光客が来てくれることこそが大事で、自然とは、所詮、客引きなのでしょう。あるいは、1957年当時の人々の自然観はそんなものだったと解釈するのが穏当なのかもしれません。
 この「無限に拓ける国際観光地」論は、いつまで立っても消えることがなく、今日も姿を変えて繰り返されていないでしょうか。しかも、今日の観光論の中では、「俗化させない」も「大衆の山」もブレーキとして意識されることなく、「無限に拓ける国際観光地」だけが論じられていると私は懸念しますが、如何。
 そんな問題意識をもって、日々を過ごしていたとき、立山山麓地域を森林浴地帯としたいという構想の元、その研究会が開かれました。有峰担当ということで私が呼ばれました。座長は、現在、イタイイタイ病資料館の館長をなさっている鏡森定信先生。公衆衛生が専門の先生は、森林浴も研究されていたのです。立山国際ホテルを会場に、4月末の土曜日曜泊りがけで開かれた研究会には、県、大山町、立山町、立山黒部貫光株式会社、千寿ケ原や本宮の旅館関係者などが集まっていました。県からは、私の他に、4月に着任したばかりの観光課長が出席。彼が、県の観光施策の概要説明した後、私が発言しました。
 立山に関しては、「俗化させない」という理念が、県民の中に脈々として流れていたのではないか、それを忘れて、観光を論じるのはよいことなのか。
 観光課長は、私より年下であり、出世レースから落伍しつつある私は、少なからず悋気(りんき)していたことを、ここで、告白します。
 すると、立山黒部貫光から来ておられた金山さんが発言された。
 私は、長らく、佐伯宗義社長(富山地方鉄道の社長でもあり、衆議院議員でもあった)の秘書をしていました。私たちは、社長のことをオヤジと呼んでいました。オヤジは、いつも「俗化させず大衆の山とする」ということを口が酸っぱくなるほど、言っていました。(発言ここまで)
 これで、はっきりしました。1960年当時において、「俗化させず大衆の山とする」は、富山民の合意であった。それが、40年たって、「大衆の山」がいつしかすたれ、「俗化させず」だけが、辛うじて、人々の口の端に登るようになっていたということです。

〜二項対立~

 立山連峰を俗化させず大衆の山とする。昭和30年代には、富山県民に共通の認識だったこの考えが、いつしかすたれてきた。「大衆の山とする」が忘れ去れ、「俗化させず」が風前の灯ということをこれまで書いてきました。
 このことをどう解釈するか。百人百様の解釈が、それぞれに正しいと思います。私の解釈を書きます。
 立山黒部アルペンルート沿線はさておき、劔岳は、いまだ、きっちりしているのではないでしょうか。私は、劔岳に登ったことがありません。腰が痛いので、今から登ることも不可能だろうと思います。さて、その劔岳の登り口の馬場島には、「試練と憧れ」という石碑があります。県庁で一緒に働いた上市町出身の吉田智美さんの祖父にあたる方が書かれたそうです。劔岳をインターネットで検索すると、この「試練と憧れ」という言葉がたくさん出てきます。
 「俗化させず大衆の山とする」もそう。「試練と憧れ」もそう。このように、対立項で問いを立て、その対立項を融合させて新しい価値を生むように努めることを、二項対立といいます。岩波新書に「仕事術」という本があります。著者の森清さんは、二項対立の重要性を説いています。世間をにぎわす事件で、「第三者委員会」がよく出てくること。元最高裁長官の三好達さん(日本会議前会長)が、「私は、学生の頃から日本国憲法は間違っていると思っていた」と発言していることなどから、社会の公平や中庸が揺らいでいると思います。二項対立の重要性が、再認識されなければならないと思います。そして、劔岳が「試練と憧れ」という二項対立を保っていることに、ほっとします。

仕事術 (岩波新書)

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 仏教で考えてみましょう。有峰森林文化村の村長、梅原猛さんの「『森の思想』が人類を救う」という本を引用しながら説明します。

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 仏教は、紀元前5世紀に、インドのガンジス川の流域で活躍した釈迦の思想に端を発します。釈迦の仏教は、人里離れた山に入って静かな人生を送るという教えです。しかし、それでは迷える大衆を救えないのではないかという考え方が出てきました。迷える大衆を救うためには、山を降りて、欲望にたいしてちがう考え方をもたなければならないのではないか。山で修業しているのは欲望の否定に偏りすぎてはいないか、もっと欲望にたいして自由であるべきだという思想です。これが大乗仏教で、唱え始めたのは、インドの龍樹(2世紀)という人です。大乗仏教は、迷える人を救おうとするもので、菩薩仏教とも呼ばれます。一方、釈迦の教えに忠実たらんとする仏教は、小乗仏教と呼ばれます。龍樹は、小乗の教えでは多くの迷える大衆を救えないとしたのです。
 中国には、インド生まれの仏教が西域経由で入ってきました。大乗仏教も小乗仏教もです。3世紀の鳩摩羅什(くまらじゅう)という中国の僧は、多くの女性を相手にたくさんの子供を産ませ、愛欲に対して厳しい考え方をしない人で、この人が大乗仏教を中国の主流にしました。この流れをくむ大乗仏教が、552年に日本に伝来しました。
 このように、日本に伝来した大乗仏教は、きびしい愛欲の否定という理想をおろした仏教でした。そのかわり新しい思想を大きく掲げました。それは「自利利他」という菩薩行を実践することです。菩薩行では、
  1. 布施(恵み施すこと)
  2. 持戒(道徳的規律を守ること)
  3. 忍辱(耐え忍ぶこと)
  4. 精進(努力すること)
  5. 禅定(集中すること)
  6. 智慧(知恵をもつこと)
が求められます。六波羅蜜と言います。富や名誉に対する執着や性欲から逃れることのできない大衆の姿を肯定しつつ、六波羅蜜を守りなさいという教えが、日本の仏教ということになります。
 私は、この六波羅蜜の存在を知るまでは、お寺に行って、寄付をした人の名前と金額を、金額の大きい順に並べて掲示してあるのを見て、名誉欲をくすぐってお金を集めようとしているのではないかと思っていました。母にそれを話すと、「お金がないとお寺がつぶれるから当たり前じゃないの」と言っていましたが、どうもすっきりしませんでした。しかし、六波羅蜜の先頭に布施が書いてあるのです。布施は、虚栄心をくすぐりかねない面がある一方、自利利他という大事な面があるのです。まさに二項対立です。
 この梅原さんの説に従えば、「俗化させず大衆の山とする」は、日本仏教の二項対立を凝縮した言葉といえるでしょう。

〜世界に類を見ない山岳リゾートエリア~

 「しなやかな日本列島のつくりかた」という藻谷浩介さんの対談集がある。藻谷浩介さんは、1964年生まれ。「里山資本主義」などの著書がある。新幹線の駅についてと新湊内川についての講演を聞いたことがある。ステージを右に行ったり左に行ったりしながら、力強い講演をなさる人である。その対談集の中に山田桂一郎さんとの対談が含まれている。山田桂一郎さんは、1965生まれ。内閣府、国土交通省、農林水産省認定の観光カリスマである。

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 その対談の中に、入込数(いりこみすう)を気にしてはだめだということが語られている。有峰なら有峰に何人の人が来たかという数字を入込数という。有峰に入ろうと思えば、亀谷・水須・東谷の連絡所から入るわけであるから、しっかりわかるのは、その日に有峰に入った車の台数だけであって、それ以外のことはわからない。一台の車に一人乗っているか四人乗っているかで入込数は変わる。バスで20人どんと入ることもある。ビジターセンターの入込というものもある。ビジターセンターの扉をあけて入ってきた人の人数である。案内を聞きに来た人もいれば、トイレ利用もある。観光に関する統計では、この入込を大事にする。
 考えてみれば、日本において、観光における俗化は、入込を第一の指標としてきたことにあるのではないか。スイスでは、入込なぞ全く気にしていなくて、宿泊数のみを気にしている。

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 日本の軍隊の悪弊の一つに、員数主義があった。とりあえず数がそろっていればよいという考え方である。戦車の装甲の厚さが違えば、同じ一台の戦車でも、戦力は全く異なる。ところが、同じ一台だから同等という計算をしていたのである。役人は、とりあえずソロバンできる指標を用いて統計をとりたがり、自らの組織は大丈夫と安心したがるのである。
 山田さんは、宿泊数のみを気にせよと言っておられる。実際、観光庁のホームページを見ると、宿泊者数の統計が中心で、入込は過去の指標という扱いである。まともになってきたのである。
 有峰で言えば、有峰ハウスとキャンプ場の宿泊者数こそが重要である。これらの数字は、リピーターの増加なしに安定成長はありえない。清潔な施設、細やかなサービスと並んで、他のお客さんとの語らいもリピーターとなっていただけるかどうかに影響すると考えて私はやってきた。
 さて、山田桂一郎さんに関係する記事として、2017年2月3日の北日本新聞に、「アルペンルート夜間運行へ 立山黒部貫光」という記事がある。
 立山黒部貫光(富山市桜町、佐伯博社長)は今後5年間で、夜間運行をはじめとする立山黒部アルペンルートの営業時間延長や期間拡大に取り組む。新たに策定した同ルートの中長期ビジョン(事業戦略)に中期目標として盛り込んだ。長期的には、現在は休業期間としている冬季の営業や室堂ターミナル周辺での新たな観光施設建設などを検討し実現を目指す。利便性や魅力を高め、ルート一帯を世界有数の山岳リゾート地に育てる。
 ビジョンは2041年のルート全線開通70周年へ向けて策定した。21年までの5年間の中期と、41年まで25年間の長期の目標をそれぞれ設定。目指す将来像を「世界に類を見ない山岳リゾートエリア」と定めた。
 営業期間の拡大は既に、今シーズンの全線開通日を例年より1日前倒しして4月15日に決めた。営業時間の延長については、5年後までに立山ケーブルカーや立山高原バスなどを夜間運行する方針で、同社は「北アルプスの星空を日帰りで気軽に楽しんでもらえるようにしたい」(経営企画室)としている。実現に向けて、安全面や労務面などの課題の洗い出しや解消に取り組む。
 長期目標に掲げた冬季営業についてはより課題が多いものの、行政など関係機関とも連携、協議しながら実現を模索する。現在は4月中旬から11月末までとなっている営業期間の通年化を目指す。
 このほか、ルート内の乗り物の待ち時間短縮や予約システムの改善、案内係の増員、国際ガイドの育成なども今後5年間で実施する。長期目標としては、観光客が集まる室堂ターミナル周辺に観光関連施設を新設。悪天候でも観光客がある程度満足できるようにしてリピーター増につなげる。
 こうした中長期の取り組みを通じて、同社は大自然と黒部ダムなど人間の営みが共存しているルートの魅力を広く伝えていく方針。併せて立山信仰の歴史や文化も国内外に発信したいとしている。
 ビジョンは山岳観光の専門家として知られる山田桂一郎氏(JTIC SWISS代表)を座長に、同社幹部のほか県と立山町など自治体関係者や観光業者らで構成する社内委員会で昨夏から検討を重ねてまとめた。(新聞記事ここまで)
 私は、雪の大谷でバスが映ったポスターを見るたび、こんなのはよろしくないと思う。私は、環境原理主義者である。地球温暖化が心配される中にあって、石油を燃やして重機で除雪しアスファルト面を露出させるのが耐えられない。私の心配は、地球環境保全上、取るに足らないことなのか。そこまでして、観光開発しなければならないものなのか。ばちが当たるような気がしてならないのだ。営業期間の通年化など、私にはとんでもないことに映る。植生や動植物への影響などが心配される。フロンガスは、当初、優れた物質だともてはやされていた。しかし、オゾン層破壊の原因とされて大変なことになった。このように、自然に対しては、保守的であるべきだと思う。触らぬ神に祟りなしという考え方を、非科学的だとは思わない。公害のほとんどは、その当時、無害と科学的に考えられていたことから起こっているのである。
 「しなやかな日本列島のつくりかた」には、「誰もが自慢し、誰もが誇れる町を目指す」という北海道弟子屈町(てしかがまち)の話が出てくる。それを立山黒部に置き換えれば、「県民誰もが自慢し、誰もが誇れる立山連峰」ということになる。その自慢や誇りは、「俗化させず大衆の山とする」という昭和30年代の願いに対する挑戦の先に生まれるものであって、それをすっとばして、「世界に類を見ない山岳リゾートエリア」はあり得ないと、私は考える。事務に携わる方々には、山田さんに、こうした伝統があったことをきっちり伝えていただきたいと願うばかりである。山田さんとて、なるほどと膝を打たれるのではあるまいか。
 なんとなく「有峰を俗化させてはならない」と思っていた私である。その認識は、県庁に広く存在していた。そんな私が、「立山連峰全体として、俗化させずに大衆の山とする」という認識が、昭和30年代、富山県民に共有されていたことに気づくことができたのは、ひとえに、山森直清さんのおかげである。
 亡くなる3年ほど前だったと思うが、富山市中心部で開かれたとあるセミナーで、こんなことを言われた。「自衛隊ができたときに、兵学校を出ているからだろう、お前も来ないかと誘われた。自衛隊に行っていたら、それなりの出世もしていたかもしれない。けれど、私は、山や森を守るという名前なので、北陸電力で、敬愛してやまない山田昌作さんの下で仕事をしてきた。その選択は、正しかったと思っている」
 サイレントネイビーと言われるとおり、戦艦大和の話は、必要最小限しか話されなかった。セミナーのあと、小宴会があった。少しく時間がたったところで、「私はここで失礼します」と言われた。「亀谷(かめがい)のお家まで、お送りしましょう」と主催者が言われたが、固辞された。富山地鉄で有峰口(小見)まで電車に乗られ、隣の集落である亀谷のお家まで戻られたのだろう。痩せた体で、背筋をぴんと張った、戦艦大和生き残りの、海軍兵学校出身のネイビーが、星空の下、あのつづら折りの坂を飄々と登って行かれたのだろう。

取り敢えず、今回はここまで。


ところで、有峰とは?

さて、
  • 有峰林道(ありみねりんどう)
  • 有峰森林文化村(ありみねしんりんぶんかむら)
FB_IMG_1525770794677
って知っていますか?

富山県の南東部にある、有峰湖はどうですか?
FB_IMG_1525778927883
こんな湖があるところです。

知らないとは言わせませんよ。
日本地図にも載っています。
img20180713131758361

ほらね。
  • 黒部ダムよりも湖の体積は大きく富山県1の大きさを誇るダム湖
  • 富山市民の水道の水源
  • 北陸電力最大の水力発電所
なんていう結構すごい湖です。

そう、そんな有峰湖へ通じる大規模林道とその周囲に広がる公園が有峰です。

歴史は古く、大正8年、水害に悩まされていた富山県が、「災い転じて福と為す」ために始めた常願寺川の開発事業の一つで、紆余曲折があり最終的には戦後北陸電力が世界銀行からお金を借りてまで作り上げた、有峰ダム
今でも富山県が北陸電力の大株主なのはそういった関係があるからだとかいう話もあったり、この有峰の運営も富山県と北陸電力がお金を出し合って運営しているという、興味深い土地です。

毎年6月1日から11月12日までの間、
  • 普通車1900円
  • バイクは300円
  • 自転車ならば無料
で林道内に入れます。

普通に行っても楽しめますが、お得なイベントも開催されていますので、そういうときに行くのもいいですね。



有峰ハウスの宿泊予約はこちらからがお得です♪
有峰林道の公式情報は

通行止等の情報は
http://www.arimine.net/toll_road.html

フェイスブックページもあるみたいですよ。
https://www.facebook.com/ariminet/

有峰について学びたい方はこちらの書籍も読んでみては?

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上の写真は猪根山遊歩道のカラマツ

有峰から登れる山は?

有峰の折立と言うところは、黒部川源流の山々への最短ルートの登山口となっています。
その中には日本百名山の薬師岳なども含まれていますよ。

ぜひ来てみてくださいね。

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毎日アルペン号
というバスが、東京から折立まで、夏時期は毎日走ってますよ。
使ってみてくださいね。

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幼稚園の頃から夢は「のんびり暮らしたい。」
仙人のような暮らしを夢見て、日々、遊んでいます。
記事を読んでいただきありがとうございました。


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