有峰森林文化村の観念論 有峰森林文化村ができるまで1 有峰森林文化村新聞まとめ
有峰森林文化村新聞http://www.arimine.net/annai/newpaper.htmは、有峰森林文化村が発行しているニュースペーパーですが、改行も読みにくいし、索引も分かりづらかったり、続けて読みにくいという欠点があるので、少し纏めてみています。
今回は、元祖編集長中川さんによる有峰森林文化村ができるまでの記録をまとめてみます。
〜有峰森林文化村の歩みを書くにあたって~
その人がさりげなく言ったことで、言った人は1時間もしないうちに忘れてしまったことであるにもかかわらず、言われた人は、ずっと覚えている。こんなことが、みなさんにも、いっぱいあるでしょう。私にとっては、「有峰森林文化村って観念論ですね」という言葉が、きつく記憶に残っています。
有峰森林文化村が開村したのは、2002年7月です。その2年前ぐらいのことです。県庁では、各部局の懸案事業を一定の様式にまとめて、知事に報告する制度がありました。とりまとめる担当主幹に、私が説明しました。彼が、まとめて知事に報告してくれるからです。そのとき彼は、「観念論ですね」と、言ったのです。
当時、観念論とはどういう意味か、私にはピンと来ませんでした。なんとなく、侮辱されたような気がしていました。今、改めて、調べてみました。
デジタル大辞泉によると、
- 精神的なものと物質との関係において、精神的なものの側に原理的根源性を置く哲学説。
- 現実に基づかず、頭の中だけで作り出した考え。
懸案事業は、「こういう課題があって、こういうふうに取り組んでいくつもりである」と書くことになっています。多分、私は、有峰の置かれている現状を説明した後、「有峰森林を通じて、循環と共生を考える場にしたい」と、書いたのです。
県庁のたくさんの課の懸案事業を、一課題あたり30分ぐらいずつ聞き取りをしてきた担当主幹は、「珍しく哲学的な話をするなあ」と肯定的な印象をもっていたのかも知れません。あるいは、「何を頭でっかちなことを言っているんだ」と、思っていたのかも知れません。言葉を換えれば、富山弁でいうところの、「こわくさい」と思っていたのかも知れません。
観念論と言われて、ピンと来なかった私は、ただ、侮辱されたような気がしました。
みなさんも試してごらんなさい。誰かが、何か理想的な話をしたときに、「何を非現実的な話をしているんですか」とか「こわくさい話をするな」と言うと、相手は、必ずや立腹します。しかし、「観念論ですね」と言うと、相手を、一瞬、ひるませることができます。それだけではありません。相手から「理想を語らずしてどうするんですか」と反論があったってとしても、「あなたの意見は、立派な話だから、観念論ですねと褒めているんです」と、言い返せる保険がついています。それでいて、「こわくさいやつめ」という、密かな軽蔑目的はちゃんと果たすことができます。観念論とよく似た言葉に、「そもそも論」があります。しかし、この「そもそも論」は、観念論ほど、相手をひるませつつ、保険も隠しているという効果がありません。観念論の方が、そもそも論より数段優れます。
私は、有峰在職中、懸案事業とりまとめ担当主幹が、鋭く指摘したように、哲学を棚上げすることなくやってきました。そして、職場としての有峰を離れてからも、ボランティアとして、言い換えれば、ライフワークとして、有峰森林文化村にかかわってきました。
世間には、始めた当初は、組織の目標を高く掲げつつも、それはそれ、これはこれと割り切って、いつしか、平明な指標だけで事業の成否を検討しているものが多いものです。売上、利益、入場者数、費用対効果(費用に見合う効果が上がっているか)などがその指標です。当初の担当者は、遠巻きに、その事業を見ており、口出しをしないことがほとんどです。そんなことを繰り返していると、現役のスタッフの中に、工夫がなくなり、熱いものが生まれなくなります。スタッフの中に、工夫や熱いものが生まれなければ、来ていただく方に感動を与えることができなくなります。
有峰森林文化村を始めるときに後押ししてくださった前の富山県知事中沖豊氏と、恩師・犬島肇氏から、「有峰森林文化村設立の経緯を、本にしなさい」と、私は言われています。そこで、この有峰森林文化村新聞に記事として書き、それをまとめて、本にしたいと考えています。
ただ単に、有峰森林文化村の当初の思いが、風化しないようにしたいからだけではありません。
観念が現実に直面して、不必要にゆらいでいないか。あるいは、観念が現実に直面して、硬直化していないか。つまり、観念と現実が、緊張感をもって、らせん階段のように絡み合ってチェックしあっているか。ねじばなのように。
そのように役立てばと思い、有峰で仕事していた時、どんなふうに進めてきたかを書こうと思います。
〜行革がきっかけ~
有峰森林文化村は、基本構想が2001年5月、基本計画が2002年7月に作られね同年8月に開村式を挙行しました。どのように進んでいったかをお話します。
私が、有峰にかかわり始めたのは、1999年です。4月の人事異動で、富山県庁農林水産部治山課の事務の課長補佐になりました。1956年生まれですから、43歳でした。現在、富山県における林業行政は、森林政策課が所管しています。しかし、当時は、林政課と治山課の二つの課で分担していました。山崩れを防ぐ治山工事、林道工事、森を守る保安林制度、そして有峰森林を担当する課が治山課でした。その他の林業行政を林政課が担当していました。林政課は、林業職員の人事、森林育成、森林組合、木材加工、森林公社、中央植物園、林業試験場、木材試験場など広範な分野を担当していましたから、森林公社などへの出向者も含めると職員数45人の大人数の課でした。それに比べて、治山課は、公共事業を担当していたことから予算は大きいとはいえ、職員も16人と少ない(出向者なし)課でした。
表1. 林業関係の本庁常勤県職員数の推移
1999年度 | 2016年度 | |
林政課 | 45 | - |
治山課 | 16 | - |
森林政策課 | - | 65 |
うち全国植樹祭 | - | △ 18 |
合計 | 61 | 47 |
1999年度は、本庁の林業関係常勤県職員は61人でした。現在は、65人です。そのうち、来年度の全国植樹祭関係の職員が18人いますから、それを差し引くと47人です。1999年度の61人には、有峰管理事務所の6人を含んでいません。一方、有峰管理事務所は廃止され、有峰森林文化村係として森林政策課に8人が属しています。たいした行革をしたものです。人数が多い課は、課長との相談の時間も取りにくくなるものです。その点、治山課は小さく、課長との相談が簡単にできるありがたい課でした。
1999年4月、治山課の課長補佐として事務の引継ぎを受けたとき、有峰の行革が懸案事項であると説明されました。それはこういうことです。有峰には、県庁の3つの課がかかわっていたのです。有峰森林と有峰林道に関わるのが、農林水産部治山課。有峰青少年の家に関わるのが、生活環境部女性青少年課。有峰ふるさと自然公園に関わるのが、生活環境部自然保護課です。有峰ふるさと自然公園とは、猪根平一帯の公園のことでビジターセンターが中核施設です。わかりやすくビジターセンターで代表させることにします。森林・林道、青少年の家、ビジターセンター、これらの有峰関係の所管が3つになっているのをすっきりさせたらどうかというのは、行政改革を考えると容易に浮かぶアイデアです。
表2. 1999年度の有峰関係の所管課と現地常勤職員
施設 | 所管 | 常勤職員 |
森林・林道 | 農林水産部治山課 | 6 |
青少年の家 | 生活環境部女性青少年課 | 3 |
ビジターセンター | 生活環境部自然保護課 | 0 |
さらには、2000年国体に向けて、有峰林道小見線の整備が急ピッチで進められていました。即ち、富山から有峰に向かう主たるルートである小見線を一気に改良するため、2年間通行止めにして、新真谷トンネルなどの整備を進めたのです。有峰管理事務所では、職員が5月から11月まで現地に寝泊まりしていました。有峰林道が急速に整備されたことから、もう寝泊まりしないで通いの出先で十分でないかということも行革の俎上に載りました。
一方、有峰青少年の家は、1964年、県内で最初に作られた青少年の家でした。当初は、大変な賑わいでした。その後、黒部、二上、砺波に青少年の家が作られ、呉羽と利賀に少年自然の家が作られました。立山には国立少年自然の家が作られました。富山市は、山田村に類似の施設を作りました。児童生徒の減少もあり、有峰青少年の家の利用は急速に減っていきました。加えて、建物の斬新なデザインが災いしたのか、無人の冬に4メートル近く積もる雪のせいでしょう、融雪時に屋根の縁に大きな力が加わり、結果、雨漏りに悩み続ける建物でした。所長は、女性青少年課長兼務で、常勤職員は、小中学校籍の先生が2人と運転手さんの3人でした。
ビジターセンターには、常勤職員がおらず、有峰管理事務所が自然保護課から委託料をもらって、管理していました。林業職員のOBを1人半年間だけ雇っていました。
仕事をするのに、一番大事なのは、主務者であり、主務課です。有峰における存在感としては、治山課6割、女性青少年課3割、自然保護課1割といった感じでした。同じ県の組織とはいえ、その合意形成は大変です。例えば、「有峰青少年の家に宿泊学習している小学生に、森の機能を、管理事務所の林業職員が説明すればいいのに」と誰もが思いますが、試みられたことはあるとはいえ、毎年、恒常化した活動ではありませんでした。そんなことを前提とした職員配置ではないので、「なんで、職務分担表に書かれてもいないことをしなければならないのだ」と言われたら、ポシャるアイデアです。
現場では、管理事務所と青少年の家は、山開きや山じまいで、管理事務所の座敷で楽しく宴会するなど、わきあいあいとしています。しかし、仕事はバラバラであり、さらには本庁での調整はやっかいです。陸軍と海軍の対立のようなものです。どこかの課が音頭を取って、有峰を一本にすれば、無駄も減り、県民に喜んでもらえるのではないかと、誰しもが思います。治山課の職員で、一本化すべきであると説く人もおられました。しかし、そう簡単に切り出せる話ではありません。
図1. 輪ゴムとしての有峰森林文化村
治山課に異動して2年後の2001年5月に、有峰森林文化村構想をまとめました。そこでは、図のようなイメージを描いていました。森林・林道の赤色鉛筆がある。青少年の家の黒い鉛筆がある。ビジターセンターの万年筆がある。それら3本の筆記用具を束ねる輪ゴムとして有峰森林文化村がある。3つの筆記用具には、自由度があるけれども、方向性は同じであるというものです。
治山課は、県庁南別館の2階にありました。女性青少年課と自然保護課は3階にありました。基本構想原案を作って、根回しをし、担当者レベルで合意が得られたとしても、それぞれの部長の了解を取り付けるのはやっかいです。「なんで、有峰森林文化村なのだ。有峰自然文化村なら乗ってもいいけど」という調子です。両部の次長に協議してもらいたいところですが、「なんで、こっちが頭を下げなければならないのだ」という感じでした。
ですから、有峰森林文化村輪ゴム論は、ぎりぎりのところだったのです。どんな役人も、自分たちの所管する仕事を減らすことには抵抗します。内心、やめたいなあと思っていたとしてもです。そんな前提のもと、基本構想を作り、基本計画の策定を進めていたのです。
ところが、2002年の1月、予算査定の場で、中沖知事から、「有峰森林文化村条例を作れ」と指示があったのです。条例の大きな役割は、県民のみなさんからいただくお金を定めることにあります。つまり、有峰青少年の家の宿泊料金は条例で決めなければならないのです。そうなると、有峰森林文化村条例の主務課は一つでなければなりません。結局、青少年の家も、ビジターセンターも全部、治山課所管となります。他の部の仕事を別の部にもっていくという提案は、農林水産部長でも生活環境部長でも総務部長でもできないことで、一人、知事のみができる命令だと思います。みんながみんな、内心思っていたとしてもです。知事の命令が出るまで、私も治山課長も農林水産部長も、生活環境部の仕事をこっちによこせなどという提案をしたことはありません。それほど、知事の命令は晴天の霹靂でした。
このことによって、有峰に関わる県の組織をスリムかつ強力なものにすることが可能になり、実際問題として有峰に駐在する県常勤職員の数は、9人から8人に減りました。
表3. 有峰に駐在する県常勤職員の推移
1999年度 | 2003年度 | |
治山課 | 0 | 0 |
森林政策課 | 0 | 8 |
有峰管理事務所 | 6 | 0 |
有峰青少年の家 | 3 | 0 |
合計 | 9 | 8 |
知事がそのような指示をされた背景を、次の章でお話します。
〜東洋の森林文化~
県や市町村にとって、拘束力を持つのは、条例、規則とその年の予算です。条例と予算は、知事や市町村長が案を議会に提案し、議会が議決して条例と予算になります。規則は、首長が議会に諮ることなく決めることができます。しかし、これらの条例・規則・予算の3点セットでは、将来への方向性を示すことが出来ないので、総合計画という複数年を見渡した計画を作ります。そこに書いたことが実現されなくても問題ありません。絵に描いた餅であってもかまいません。例えば、射水市太閤山に鉄道を走らせるなどという絵が描いてあります。
戦後2代目の高辻武邦知事は、1952年3月に「富山県総合開発計画」を作りました。これは、よそより早いだけでなく、大変な力作であったことから、全国の注目を浴びました。元大東亜省管理局長の山越道三氏の熱意ある指導の下に作られたもので、水力発電による重化学工業の発展を中核に置いた、7巻3900頁にもわたる大計画でした。
総合計画を立てて、県政の指針としようとする流れは、このときに始まり現在も続いています。もちろん、ページ数は格段に少なくなっています。しかし、策定にあたって知事を先頭に県職員が心血を注ぐことは、昔も今も変わりません。
総合計画は、時の知事の考えによって、内容が変わります。現在まで、全部で12本の総合計画があります。その12本の総合計画を、哲学的な記述があるかどうかで見ると、3つの総合計画が際立っていると、私は考えます。
第一は、1966年3月に作られた第3次富山県勢総合計画です。巻頭に、3代目吉田実知事はこう書いています。
従来のように物質偏重におちいる弊をさけ人間尊重を基調とする社会開発の推進を重視し、とくに計画を実現するのは原動力となるのは人であることに思いをいたし、ともすれば不安定になるおそれのある人間の精神的姿勢を正す糧として「望ましき県民像」の提唱をみたのであります。
今の感覚からすれば、「望ましき県民像」なんて、「上から目線」だなあと思いますが、精神的なことを真正面に持ってきたことは特筆すべきことだと思います。
第二は、1970年、4代目中田幸吉知事の第4次富山県勢総合計画です。この総合計画から、テーマが掲げられるようになりました。そこでは「価値ある県民生活の探究、実現」を掲げています。上から目線ぶりは薄まり、物の豊かさから心の豊かさへの移行を意図した計画となっています。背景として、イタイイタイ病など公害デパート県返上の願いが込められていたと思います。
これら二つの総合計画は、精神的なことの重要性を説いています。しかし、深い歴史的な考察を踏まえていないのではないかと、私は考えます。せいぜい、1945年以降の日本、富山県の、社会のありよう、ものの考え方に対する反省に立った記述です。
哲学的な記述がある第三の計画は、2001年4月、5代目中沖豊知事の富山県民新世紀計画です。これは、上に掲げた2つの計画とは異なり、文明史的な思索が感じ取れます。その巻頭のページの中の4つの文を転記します。
今、この歴史的な場面に立ち、「戦争と技術」の時代と言われる20世紀を顧み、新世紀において、平和を守り、かけがえのない生命を未来に継承し、文化の発展に貢献していくことが、この時代に生きる私たちの使命です。「平和」は、人類共通の願いであり、社会の繁栄と人間の幸福の前提となるものです。その実現には、交流を広げ、お互いを認め尊敬し合うとともに、紛争を回避するためのあらゆる努力が必要です。「生命」は、生と死が繰り返される悠久の歴史の中で、大切に受け継がれてきたものです。すべての人の生命、自然界における万物の生命には、祖先の祈りと希望が託されています。
この総合計画のテーマは、「水と緑といのちの輝く 元気とやま」です。翌5月に策定された有峰森林文化村基本構想は、「水と緑といのちの森を永遠に」です。総合計画に連動させた有峰森林文化村という見方は表面的です。有峰森林文化村にまつわる2000年の議論が、県全体の総合計画に少なからざる影響を与えたのではないかと、私は考えています。
1999年に治山課に異動してきた私は、福田総一郎課長と相談して、有峰に関する土地勘をつけることから始めました。土地勘とは、現地を知るだけでなく、制度を調べ、文献やよく似た事例を調べることを含みます。有峰管理事務所の背戸川儀高所長、中村百(ひゃく)所長代理に話を聞き、事務所に泊めてもらい、現地を案内してもらいました。大学4年のとき、京都銀閣寺の裏にある大文字山に、部活の合宿最終日の恒例行事として競走で登って(約30分)以来、山に登ったことのない私は、猪根山遊歩道を中村所長代理と登り、下りで足ががくがくになるという体たらくでした。大学以来ずっと、「なんで、つくつくの所(とんがった場所)に行かなければならないのだ」と思っていました。また、有峰の参考例を求めて日光を視察し、環境庁の人に話を聞いてきました。林野庁の林業白書を読みました。しかし、その白書は、ぬるい内容でした。もっと、がつんと来る本はないものか。治山課の本棚に筒井廸夫東大教授の「森林文化への道」という本がありました。島崎清明主任に勧められて、梅原猛さんの「森の思想が人類を救う」と飯田辰彦さんの「有峰物語」を読みました。また、岐阜県立森林文化アカデミーという学校の視察に行きました。森林文化という言葉は、筒井教授が発案者です。
中古価格 |
中古価格 |
しかし、当時、実際に行政で使われているのは、岐阜県立の学校だけという状態でした。「森の思想が人類を救う」と「有峰物語」を読むと、森林文化という言葉こそ使われないものの、筒井教授の森林文化そのものがそこに書いてありました。
中古価格 |
2000年4月、課長が小見豊さんに代わりました。隣の机に座っておられた小見課長と、朝な夕なの話し合いから、「有峰森林文化村」という名前が出てきました。筒井教授の「森林文化」で行こう。なぜ「村」かと言われたら、昔、有峰には人が住んでいた。今、村民はいない。しかし、住民票はなくとも、有峰を愛する人を村民としようという発想です。小見課長も私も、「英語を極力避けたい。センター、アカデミー、ビレッジなどは、とんでもない」という考えでした。石川県は、白山から能登まで広がる「いしかわ自然学校」という雄大な構想を進めていました。石川県庁が富山県庁をどう意識しているかは別として、富山県庁は、加賀藩の石川県庁のやっていることに、常にアンテナを張っています。その「いしかわ自然学校」の新聞記事に、「環境教育のメッカを目指す」と書いてありました。石川県の人が新聞記者に説明したとき「メッカ」という言葉を使ったのか、それとも記者が編み出したのかわかりません。しかし、有峰森林文化村を説明するのに、「メッカ」などと言われたら、私たちには湯気を立てて怒ります。当時の部長は、上江崇春氏。上江部長に、「有峰森林文化村で」と相談したところ、それで知事のところに行って来なさいとのことでした。青少年の家とビジターセンターを所管する生活環境部とのすり合わせはしていません。
2000年の初夏だと思います。小見課長が、中沖知事に有峰森林文化村を説明されました。私も、同席しました。せいぜい5分くらいでしょう、紙は1枚だったと思います。知事が、「うーん、森林文化ねえ。北欧や西欧の森林文化はどうなっているのかね」と質問されました。
小見課長は、間髪を入れず、「ヨーロッパの森林文化は、私にはわかりません。私は、東洋の森林文化をしたいのです」と答えられました。知事は、「わかった。東洋の森林文化で行きなさい」と指示されました。以降、有峰については、中沖知事とやっかいな相談をしたことがありません。ツーカーです。それほど、小見課長の「東洋の森林文化」は、中沖知事の心をがっちりつかんだのだと思います。有峰森林文化村が、2001年の総合計画に少なからざる影響を与えたのではないかとする推論の根拠は、この2000年初夏の中沖知事と小見課長のやりとりにあります。
その後、中沖知事は、有峰森林文化村憲章の原案について、折々の歌の大岡信さんに、赤坂プリンスホテルで相談されました。有峰森林文化村村長に就任してもらうために、梅原猛さんを、哲学の道の南端にある自宅に訪ねられました。いずれも、私も同席しております。また、前に書いた有峰森林文化村条例を制定すべしという指示、さらに、有峰ハウスを新築するという決定。このように、中沖知事の格別な思い入れなしに有峰森林文化村は存在しなかったのです。
中沖知事の、有峰に対する積極性の背景には、「私は、難しいことはわからない。武士道と浄土真宗でいくのだ」という、小柄ながらも腹の座った小見課長。人望のある人とはこういう人と思わせる人柄で、きちんと方針を示唆し、気さくで、細かいことは部下に任せる上江部長。このお二人がおられたのです。
〜有峰のすごさ、優秀なダムと森林管理制度~
有峰の地名をおさえましょう。とりわけ大事なのは川です。
- ①真川と湯川が立山カルデラで合流して常願寺川になる。
- ②常願寺川は、富山地方鉄道立山駅のところで、称名川を合流させる。
- ③常願寺川は、和田で、和田川を合流させる。
- ④常願寺川は、中地山・才覚地(さいかくち)で、小口川を合流させる。その後、富山湾に注ぐ。
- ⑤和田川の途中に、真谷というところがある。
- ⑥人工物がないとして、真谷を通る雨水の集水域を図示すると、点線で囲まれた区域となる。これを、有峰森林という。集水域だから尾根に囲まれている。南は、岐阜県と富山県の県境の尾根。東は、真川と和田川を隔てる尾根。西は、小口川と和田川を隔てる尾根。北は、鍬崎山の頂上から和田川までの尾根。この有峰森林の面積は、7,035haである。
- ⑦真谷の上流の猫幅に、北陸電力は有峰ダムを設け、和田川をせき止めた。有峰湖は、黒部湖より約10%広い。真谷までトンネルでほぼ水平に水を送り、落差を利用して水力発電をしている。さらに、トンネルを通じて下流の発電所に水を送り、何度も水力発電している。その合計は、最大534,170kWである。
- ⑧祐延(すけのべ)ダムでせき止められた小口川の水も、水力発電に利用されている。こちらの発電は、最大14,500kWであることから、有峰ダムの偉大さがわかるというものである。
有峰ダムに集められる水は、有峰森林7,035haのうちの猫幅上流の約5,000haの水だけではありません。本来、和田川とは別の真川の水もトンネルを通じて有峰湖に導かれます。そもそも、真川は薬師岳の西を流れ常願寺川になる川です。トンネルによって、薬師岳の西側に降った雪も雨も、有峰湖に入ることになります。冷タ谷(つべただに)キャンプ場からダムに向かって有峰林道西岸線を走ると、有峰湖に面した小さな建物が見えます。これは、真川からの水を有峰湖に入れるときに、水力発電している折立、折立(増設)発電所です。8,000kWです。
さらに、有峰森林の南の岐阜県の山の水は、本来、神通川へ注ぐ水です。そのうち出水時の水が、トンネルを通じて有峰湖に導かれ、行き先が常願寺川に変更されます。こうした流域を越えた水の導入によって、有峰ダムの集水域は、本来の流域面積の4倍以上の22,000 haになり、最大534,170kWの電気が生まれるわけです。
有峰林道に入る車の多くは、あるぺん村という物産施設で休憩します。その先の横江で、有峰ダムからトンネルを経て来た水は、常東用水・常西用水に分かれます。常東用水は常願寺川の東を流れる用水です。その用水の落差を利用した仁右ヱ門用水発電所を富山県企業局が平成21年に作りました。その最大出力が、460kWです。有峰ダム、祐延ダム、折立,折立(増設)発電所、仁右ヱ門用水発電所と並べてみてください。
大正9年に、県は、暴れ川常願寺川の「禍転じて福となす」のために県営水力電気事業を実施しようと有峰集落の人々がもっていた山林を買収しました。14,196 haです。当初は高さ110mの重力式コンクリートダムとして設計され、その大きさは現在の高さ140mに比べれば見劣りしますが、戦前のダムとしては異例の巨大さでした。ダムに貯えることができる水の量は90百万立方メートルで、下流に建設する4か所の水力発電所で最大58,000kWの電力を発生する計画でした。ちなみに、現在の有峰ダムは、2.47倍の222百万立方メートルです。
昭和14年に、県は猫幅にダムのコンクリート打設を始めました。その最前線基地が有峰ハウスのある猪根平です。国家総動員体制の中で、昭和17年に、県は日本発送電株式会社という国策会社に全ての資産を、出資という形で提供しました。昭和18年には、戦争で資材を用意できなくなったので、工事中断となりました。戦後、日本発送電は、東京電力、関西電力等の地域独占電力会社に分割されました。常識的には、北陸地域は中部電力になるはずです。しかし、戦前の日本海電気社長だった山田昌作さんの尽力で、北陸は北陸電力になりました。ここで注意していただきたいのは、その地域の発電資産が、そのままそこの電力会社に属することになったのではないということです。黒部川や庄川に関西資本が持っていた水力発電資産は、関西電力のものになりました。そして、地元資本がもっていた資産が、日本海電気を根幹とする北陸電力のものとなりました。
そうすると、県が途中まで作りかけていた有峰の電源資産は、日本発送電を経由して北陸電力に移っていくことになります。そこで、それの見返りとして、北陸電力は県に株券を交付しました。現在も、富山県は、北陸電力の筆頭株主です。
昭和31年、北陸電力は電源開発を再開し、昭和35年にダムを完成させ、発電を始めました。上で述べたように、神通川に流れ込む水も有峰湖に導いたので、県営時代よりも大きなプロジェクトでした。そこで問題となったのは、7,035haの有峰森林の管理です。森林は、発電・農業・生活の水源として、さらに洪水を防ぐために重要です。そこで、県と北陸電力は画期的な森林管理制度「有峰森林特別会計」をつくりました。昭和33年度のことです。すなわち、北陸電力は所有していた有峰森林の木を県に戻す。ただし、土地は、北陸電力のまま。かわりに、県は、有峰森林と有峰林道の管理に当たるというものです。
その後、昭和48年度に、森林と林道のためにかかった費用から、木材販売売上と林道使用料収入を差し引いて生じた不足額を、県と北陸電力で折半するというルールを確立するに至り、今日まで続いています。なお、ビジターセンターの職員人件費、有峰ハウス運営費、語り部講経費などは、この有峰森林特別会計とは関係ありません。
この単純明快さ、透明性は、特筆すべきものです。この制度を作りあげるために、歴代の北陸電力と富山県庁の担当者は、さぞや、知恵と汗を絞っただろうなと、感心します。北陸電力の人たちは、有峰を聖地と考えておられ、とりわけ、初代社長の山田昌作さんに対する敬慕の念は並々ならぬものがあります。その気持ちが、全国に自慢できる制度に結実したのだと思います。
「有峰よ、俗化しないでおくれ」。これは、有峰を愛する人たちの切実な声です。有峰の俗化を食い止めるのに、昭和30年代から40年代にかけて磨かれていった森林管理制度が大きな貢献をしています。その基礎の上に、有峰森林文化村が存在しているということを、忘れてはなりません。
県庁正面玄関から入って、知事室に向かう階段のところに、銅板が埋め込まれています。これは、昭和17年に県が途中まで進めた県営水力電気事業を日本発送電に譲り渡すということを記念して、時の町村金吾知事が書かれたものです。「国際情勢激変シテ高度国防国家ノ建設急要トナリ」とあります。もうすぐ日の目を見る大事な大事な施設を譲り渡すという、県として憤懣やるかたない気持ちがにじんでいます。豊富な水資源を使って、豊かな県づくり実現する。これは、戦前戦後を通じて歴代の知事の悲願でした。私が有峰を担当していた時、この銅板を見上げてメモしていたら、「お、中川君か」と声をかけながら、中沖知事が通り抜けて行かれたことを覚えています。
〜中川 正次様~ 八十島大輔
9月2日の第370号では、わざわざご返信いただきましてありがとうございました。有峰に徒歩で行くこと、帰ることができる道が意外と多くあり、さらにそれらを過去の有峰森林文化村の行事で探索する旅があったとは知りませんでした。
今年になって有峰森林文化村の村民登録というものがあることを知ったこともあり、中川さんに言われるまで過去の森林文化村新聞なんて読んだこともありませんでした。しかし、参考として教えていただいた号を含め、その近辺の記事などを読んで有峰についての様々な発見がありました。ねじばな便りという名前が、「ねじばなのように、少しずつ高みに上っていくようになれば」と名づけられた事なども知りました。俳句や旅日記など色々な過去からの資料があり、有峰森林文化村となってから今までの色々な想い出がこの「ありみネット」には遺されているのだな、と林道情報くらいしか見る所が無いと思っていた「ありみネット」に対しての見方が変わりました。
今年は他の有峰の道を歩く機会がなかったのですが、来年はいくつか歩いてみたいと思います。
さて、前々回の第376号で有峰ダムの集水域は本来の5,000haの4倍以上の22,000 haで、広大な面積の水を集めているんだというお話がありました。東谷のあたりにいると、北電のアナウンスで「この川は岐阜県の金木戸川からの取水をしているため急な増水の可能性がありますから、絶対に中に入らないでください。」という事をよく聞きます。なので、その金木戸川の面積が有峰盆地の3倍もあるのかと思って国土地理院の地理院地図を眺めていたところ、導水管の管路が載っておりそれを使って集水域を描いてみました。
図中の濃い青色が有峰湖の直接の集水域。水色が、導水管が書いてあって多分そこから集めてあるであろう集水域。橙色は中川さんも説明されていた有峰森林の領域、黄色が県立有峰自然公園の領域です。
金木戸川も、一括して取っているのではなさそうで、金木戸川、中ノ俣川、北ノ俣川の3箇所から取水している雰囲気です。そして、その岐阜県側と同じくらい広そうなのが、真川流域で、奥の方からスゴ谷、岩井谷、そして真川本流という広い範囲から水を取ってきているようです。そして何より、一番その導水管路を眺めていて驚いたのが、有峰ダムより下流の東坂森谷、大谷(新ニンニクトンネルのある辺りですか!?)の上流域からも取水しているようだということです。おそらく、有峰ダムより標高が高い周囲の川から取れるだけ全部引っ張ってきているのでしょうね。これを全部足せば22,200haほどとなり、大体その4倍という数字になるので、おそらくこの集水域の面積は正しいのだろうと想像できます。ちなみに、この22,000haという面積は魚津市や高岡市よりちょびっと大きく、だいたい朝日町と同じ位の面積だそうです。ネットなどで調べてみてもダムの集水域が目で見て分かるようなものは見当たらなかったので、有峰湖が如何に広大な面積の雨水を集めてできているかが分かった良い機会となりました。
あの有峰湖の豊富な水量は、あまり表に出ない地下の導水トンネルなどにも支えられているのだと思うと、有峰ダムというものを作る事業がとても大掛かりだったという事が想像出来ました。黒部ダムなどに比べると穏やかな地形に思えていましたが、そうは言ってもですよ。こんな山奥で大規模な開発事業をしても数十年後には、こうやって「水と緑と命の森を永遠に」という自然豊かな有峰が現在あるのを思うと、自然の力というのは凄いものだと実感します。そこには色々な方々の努力があったのでしょうけれども。ありがたいことです。
取り敢えず、今回はここまで。
ところで、有峰とは?
さて、
- 有峰林道(ありみねりんどう)
- 有峰森林文化村(ありみねしんりんぶんかむら)
って知っていますか?
富山県の南東部にある、有峰湖はどうですか?
- 黒部ダムよりも湖の体積は大きく富山県1の大きさを誇るダム湖
- 富山市民の水道の水源
- 北陸電力最大の水力発電所
なんていう結構すごい湖です。
そう、そんな有峰湖へ通じる大規模林道とその周囲に広がる公園が有峰です。
歴史は古く、大正8年、水害に悩まされていた富山県が、「災い転じて福と為す」ために始めた常願寺川の開発事業の一つで、紆余曲折があり最終的には戦後北陸電力が世界銀行からお金を借りてまで作り上げた、有峰ダム。
今でも富山県が北陸電力の大株主なのはそういった関係があるからだとかいう話もあったり、この有峰の運営も富山県と北陸電力がお金を出し合って運営しているという、興味深い土地です。
毎年6月1日から11月12日までの間、
- 普通車1900円
- バイクは300円
- 自転車ならば無料
で林道内に入れます。
普通に行っても楽しめますが、お得なイベントも開催されていますので、そういうときに行くのもいいですね。
有峰ハウスの宿泊予約はこちらからがお得です♪
有峰林道の公式情報は
通行止等の情報は
http://www.arimine.net/toll_road.html
幼稚園の頃から夢は「のんびり暮らしたい。」
仙人のような暮らしを夢見て、日々、遊んでいます。
記事を読んでいただきありがとうございました。
フェイスブックページもあるみたいですよ。
https://www.facebook.com/ariminet/
有峰について学びたい方はこちらの書籍も読んでみては?
有峰について学びたい方はこちらの書籍も読んでみては?
中古価格 |
中古価格
¥3,770から
(2018/7/13 13:45時点)
中古価格
¥534から
(2018/9/14 10:13時点)
新品価格 |
上の写真は猪根山遊歩道のカラマツ
有峰から登れる山は?
有峰の折立と言うところは、黒部川源流の山々への最短ルートの登山口となっています。
その中には日本百名山の薬師岳なども含まれていますよ。
ぜひ来てみてくださいね。
雲ノ平・双六・黒部五郎―笠・水晶・薬師・槍 (ヤマケイYAMAPシリーズ) 中古価格 |
毎日アルペン号
というバスが、東京から折立まで、夏時期は毎日走ってますよ。
使ってみてくださいね。
幼稚園の頃から夢は「のんびり暮らしたい。」
仙人のような暮らしを夢見て、日々、遊んでいます。
記事を読んでいただきありがとうございました。
NEM/XEM持ってる方は、投げXEMもおねがいします!
因みに【nemlog】https://nemlog.nem.socialとは、ブログ記事を書いた(読んだ)人同士でチップを投げあえるブログサービス。興味があったら登録してみてくださいね。
コメント